■初期

湘南和尚 (しょうなんおしょう 不詳〜1637)

 山内一豊夫妻は天正13年(1585)年の大地震で一人娘の与祢(よね)を失い、その後男子を養子に迎え、拾(ひろい)と名付け養育した。 これが後の湘南和尚である。湘南は武士にはならず禅門に入り、土佐へは慶長6(1601)年入国し、吸江庵(ぎゅうこうあん)へ入った。 同庵は夢窓疎石(むそうそせき)が鎌倉時代に開山し、室町後期以降その権威は失墜していたが、湘南は吸江寺の住職として、その再興に努めた。
 また、湘南は吸江寺と兼務しつつ、一豊夫妻が建立した大通院がある妙心寺で修行を積み、晩年は同寺の住職となり、朝廷から紫衣(しえ)を賜い、和尚の称号を許された。
 寛永14(1637)年7月23日吸江寺にて死去。

阿姫 (くまひめ 1595〜1632)

 阿姫は、徳川家康の異父弟松平定勝の息女として誕生、11歳で家康の養女として土佐藩2代藩主忠義へ嫁した。 父松平定勝は、掛川城主・伏見城代・桑名藩主という経歴を持つ徳川家門であり、阿姫の兄弟定行と定綱も伊予松山藩主、伊勢桑名藩主として幕政で重用された。
 阿姫の親兄弟からの情報や助言は、土佐藩の対幕府政策や藩政にも大きな影響を与え、彼らとの関係があってこそ、土佐藩は不安定な初期の幕藩関係を無事乗り切ることができたのである。
 阿姫は元和9(1623)年に子供ともども江戸へ移り、寛永9(1632)年2月13日に江戸屋敷で死去、湯島常本山雲岸寺にて火葬、光照院殿泰誉皓月大信女と号された。

山内忠直 (やまうちただなお 1613〜1667)

 忠直は2代藩主忠義と徳川家康の養女阿姫の二男として土佐で誕生。 寛永7(1630)年従五位下修理大夫に叙任し、明暦2(1656)年忠義の隠居に際し、幡多郡に三万石を配分された。 中村支藩の成立である。 山内家ではこの他に、指扇山内家・麻布山内家・西邸・追手邸などの分家が江戸時代を通じて創出されたが、領知を持つ支藩として独立したのは、中村山内家だけであった。
 忠直は寛文7年6月9日中村にて死去。 宝谷山大用寺に葬られた。 法名は顕徳院殿傑岩宗英大居士。 忠直の死後、中村藩は豊定(とよさだ)・豊明(とよあきら)と続くが、元禄2(1689)年豊明の失脚により改易となり、消滅した。 所領は幕府領となり、同年9年改めて土佐藩へ返還され、本藩による一元的支配が確立した。

山内康豊 (やまうちやすとよ 1594〜1625)

 一豊の弟で2代藩主忠義の実父。  関ヶ原戦後、一豊が土佐の国主となることが決まると、康豊はいち早く入国して領内の安定に努め、慶長6年には西方の押さえとして幡多郡内に二万石を与えられ中村に配置される。
慶長10(1605)年初代藩主一豊の死後、若干14歳で藩主になった忠義と、その後見役を勤めた康豊は、その政策を継承し展開させていった。
 慶長期の土佐藩は、他藩とかわることなく駿府・江戸・名古屋城等の普請や大坂の陣等の過重な軍役を課された。 わずかな失態で改易になりかねないという緊張した幕府とのやりとりをこなし、一方で藩政を確立させるのは若い忠義一人でできることではなく、康豊が果たした役割の大きさは想像に難くない。
 寛永2年8月29日、高知屋敷にて77歳で没し、要法寺に葬られた。

妙玖院 (みょうきゅういん 不詳〜1618)

 初代藩主山内一豊の弟康豊の妻。 2代藩主忠義や中村山内家2代政豊・指扇(さしおうぎ)山内家初代一唯(かずただ)などを産んだ。 慶長4(1599)年、加賀藩の前田利長が母を人質として江戸へ住まわせたことを初めとして、諸大名は自ら進んで、徳川氏に対し異心がない証である「証人」を差し出した。 山内氏も同5年より一門や家臣などを証人として差し出しており、妙玖院も、同17年、藩主忠義の弟(妙玖院二男)政豊と交替すべく証人として江戸へ赴いた。 後に、家臣ではなく、大名の妻子が証人として江戸に居住するようになるが、妙玖院は、この制度が確立する以前に藩主の生母として江戸で居住し、人質として重要な政治的役割を果たしたのである。

山内吉兵衛政豊(秀豊・良豊)
(やまうちきちべえまさとよ(ひでとよ・よしとよ) 1598〜1629)

 土佐藩初代藩主一豊の弟・康豊の次男。 父の隠居に伴い、所領中村三万石を継ぎ、寛永6(1629)年4月8日に死去。
 関ヶ原前夜、下野小山の陣で一豊が居城掛川城の明け渡しと人質の差し出しを発言した時、当時わずか2歳の政豊を人質として差し出した。 その後、政豊は徳川家に対する忠誠の象徴として、証人(人質)の名のもと慶長18(1613)年まで江戸にあり、証人を解かれて、土佐に初入国したのは15歳の時で、父の領地中村に住んだ。
 元和元(1615)年、清水浦に漂着した黒船に対応した際には、証人として幕府の動静を間近に観察した政豊故の判断で、「我等在江戸之時分」に見聞きした幕府の漂着船処理の方法を参考にした的確な指示を出している。

北川豊後貞信 (きたがわぶんごさだのぶ 生没年不詳)

 山内一豊が土佐へ入国した慶長6(1601)年に開始した高知城築城にあたり、城郭の土台となる石垣工事を担当した近江国穴太(あのう・滋賀県)出身の技術者。
 北川豊後のような石工技術に定評のある近江国穴太出身の技術者を、出身地名をとって「穴太衆」と呼び、彼らは江戸時代初期の築城ラッシュの中、全国の諸大名に召し抱えられた。
 穴太衆は主に城の石垣を築く技術をかわれ土佐に招聘されたのであるが、彼らの子孫は石垣の修復の他に、藩主の墓所の造営や、城下町の南北にある鏡川・江の口川両川からの洪水から城下町を守る大規模な堤防の築造などにその技術を活かし、高知の城下町が発展していく基盤を作ったのである。

五藤為重 (ごとうためしげ 1558〜1629)

 為重は永禄元(1558)年、一豊の父盛豊の家臣であった五藤清基(きよもと)の次男として、尾張黒田に生まれた。 兄は一豊古参の家臣であり、利根坂(とねざか)の戦いで一豊の頬を貫いた鏃を、顔を踏んで抜いて助けた五藤為浄(ためきよ)。
 幼少の頃に父と離れ流浪していたが、一豊に呼ばれて仕えるようになると、兄為浄とともに一豊に従って各地を転戦、武功を重ねていった。 天正11(1583)年の伊勢亀山城攻略で兄為浄が戦死すると、兄の跡を継いで五藤家の当主となり、一豊の重臣として活躍した。 一豊が土佐に入国すると、兄為浄の功と為重自身の功により、東の要地であった安芸に1100石を与えられて安芸城を預けられる。 以後、五藤家は土居付家老の一人として藩政を補佐した。

山内(野々村)迅政 (やまうち(ののむら)としまさ 1569?〜1614)

 本姓を野々村、右衛門九郎・内記・因幡(いなば)と名乗り、山内一豊に掛川で召し抱えられた人物。 はじめ豊臣秀吉に仕え、天正末期に秀吉の職人を斬り高野山に身を隠していたところ、この経緯を聞いた一豊に呼び寄せられ、450石で召し抱えられた。 一豊の土佐入国後に山内姓を賜り、山内内記と改名、4500石を拝領した。
 その後、迅政は関ヶ原の戦い前夜に、大坂から届けられた一豊夫人の書状を一豊の命により未開封のまま家康に届ける使者を務めるなど、山内家の重要な局面にたびたび登場し、土佐入国後も藩の重臣として活躍した。
 慶長15(1610)年には因幡と改名し、同19年5月21日に45歳で死去。

百々越前守安行 (どどえちぜんのかみやすゆき 1548〜1609)

 百々越前守安行は山内一豊に従い土佐に入国、高知城築城の総奉行にして土佐藩家老をつとめた。
 百々氏は室町時代の有力大名である京極氏の支流で、近江国犬上郡百々村(滋賀県彦根市)を拠点とする一族。 その嫡子である越前守安行は、はじめ織田信長に仕えるが、本能寺の変で信長が自刃すると、豊臣秀吉に従い山崎の戦いに参戦。 その後は岐阜城主織田秀信(1580〜1605)に家老として仕え、朝鮮出兵にも加わった。関ヶ原戦では秀信は三成方に付き、家康方の西上狙撃を受けて落城。 百々越前守はその中で主君秀信の助命を交渉、秀信を出家させて一命をつないだ。
 戦後仕官先を失った百々越前守は、京都に隠棲するが、前田玄以らの仲介で一豊に仕えることとなり、その後一豊の元で実務担当者として能力を発揮した。

深尾重良 (ふかおしげよし 1557〜1632)

 土佐藩筆頭家老の深尾氏は近江国(滋賀県)深尾村に出自をもち、重良の曽祖父重列の時美濃国(岐阜県)に移った。 重良は、弘治3(1557)年重政の子として生まれ、始め同国守護代斎藤氏に、織田信長の美濃平定後は織田氏に仕えた。
 重良は、本能寺の変で織田氏が没落したのち加賀に蟄居していたが、豊臣秀吉の家臣として近江長浜城主に出世した山内一豊のもとに身を寄せる。
 慶長6(1601)年、土佐藩主となった一豊とともに入国し、一万石を給され筆頭家老として佐川土居をあずかった。

小倉少助政平 (おぐらしょうすけまさひら 1582〜1654)

 初期の土佐藩政を支えた重臣。長浜にて初代一豊に仕え、一豊の土佐入国に従って土佐に来国した。
 その後、2代忠義に起用され、元和3(1617)年からは仕置役を勤めることとなり、奉行職の野中直継とともに藩財政の赤字克服を目的とした元和改革を推進した。 様々な政策の中で、特に土佐藩の林産に注目し、領内の山地を巡察、50年を期限とする林伐制を創始した。
 また、上方に流浪していた幼年の野中益継(兼山)を土佐に迎え、野中家の養子として相続させている。 そして、子の三省政実とともに兼山の施政を支えている。

村上八兵衛 (むらかみはちべえ 不詳〜1632)

 村上八兵衛は香美郡山北村(現香我美町)の出身で、父嘉兵衛は長宗我部氏の家臣であった。 八兵衛は山内一豊の土佐入国にあたり甲浦(現東洋町)まで出迎えに行き、以後、山内氏の領内政策に積極的に協力している。
 彼の事績で特に有名なのは「村上改」と呼ばれる新田検地である。 逼迫した藩財政の再建を目的に行われた「元和改革」に際し、2代藩主忠義から「国中出分(『長宗我部地検帳』に記されていない田地)之儀、能能(よくよく)念を入可相改」との命を請けた八兵衛は、元和7(1621)年から寛永8(1631)年にかけて土佐国各地を検地し、多くの新田を打ち出した。 その検地奉行を務めたのが八衛兵であり、彼の名は土佐の各地に残る土地帳簿に「村上改」として記され、明治の地租改正にいたるまで残ることとなる。

淡輪四郎兵衛 (たんのわしろべえ 1623〜1695)

 慶安元(1648)年、淡輪四郎兵衛は野中兼山の大規模な郷士の取り立てによって郷士に召抱えられた。 元来淡輪家は和泉の国淡輪の武士であったが故あって没落、四郎兵衛の父が土佐に来国し船手として土佐藩に仕えていた。
 そして慶安3(1650)年、四郎兵衛は各浦で税の徴収を管理する分一奉行に任命されたのを皮切りにその能力を発揮し、取り立てより8年後の明暦2(1656)年には、土佐西半分の総浦奉行(漁業税の徴収、水主の管理、海防警備など浦方に関わるあらゆる行政を管轄とする役職)にまで昇進した。
 兼山失脚後も浦方支配の巧者として重用され、ついに土佐一国の総浦奉行に就任し、郷士としては異例の出世を遂げた。 だがその晩年、部下の汚職事件に関わり郷里の高岡郡宇佐浦に隠居、73歳で死去した。

■中期

法雲院 (ほううんいん 不詳〜1678)

 寛文8(1668)年2月、右大臣三条公富の娘法雲院は山内豊昌(とよまさ)(4代藩主)の継室として江戸へ輿入れした。 幕府は大名と公家(朝廷)との接近を嫌い、大名が京都に入る事を制限したが、上流公家である三条氏と縁戚関係が成立してからの土佐藩主は、参勤交代の際に度々京都に立ち寄る事ができた。
 幕末には、10代藩主豊策(とよかず)の娘が尊皇攘夷派の公家として名高い三条実万(さねつむ)へ嫁ぎ、15代藩主豊信(とよしげ)(容堂)が実万の養女を正室に迎えるなど、三条氏との縁戚関係が更に強まっている。 法雲院から始まった三条氏と山内氏との関係は、維新期の土佐藩の動向に影響を与えたと考えられる。

山内大膳亮豊明 (やまうちだいぜんのすけとよあきら 1642〜1704)

 中村支藩3代藩主。中村支藩初代忠直(ただなお)の次男。 元禄2(1689)年には奥詰衆に、同年5月には若年寄に命じられているが、病気により辞退したため、逼塞を命じられ、所領は嫡子豊次(とよつぐ)を譲ることを許された。
 しかし、同時期に豊次が死去していたため二万七千石は没収され、旧領三千石の安堵と寄合旗本並に拝謁することを仰せつけられたが、これに対しての礼、さらに将軍に対して旧領安堵を許されたことの礼を述べなかったため、「不敬の至」として、所領をすべて没収され、浜松藩主青山下野守忠重にお預けとなり、ここに中村支藩は断絶することとなった。
 この後、元禄5(1692)年に許され、高知で屋敷を構え居住した。 没収された中村三万石は幕領となっていたが、元禄9(1696)年に土佐藩に戻されている。

千屋半兵衛政富 (ちやはんべえまさとみ 不詳〜1723)

 千屋氏は、香我美郡大忍庄福萬村(香南市香我美町福万)の開発領主で、そもそもは福萬氏と称していた。 『長宗我部地検帳』には六町ほどの領地を有する一領具足として福萬孫右衛門が登録されている。元親・盛親に仕えた彼は長宗我部氏改易後も牢人として同村にあったが、孫の代に千屋と改姓、慶安3(1650)年に2代藩主忠義に歩行として召し抱えられた。 それが半兵衛政冨である。
 歩行として彼が担当した職は御庭方御用であったが、国絵図作成の下役など、現場に近い場所で様々な職掌をこなしていたためか、政冨は元禄4(1691)年に留守居組に昇格、所謂「上士」扱いとなる。 更に同10年には、新小姓にまで昇格した。 以後、千屋氏歴代は、留守居組か新小姓のいずれかの格式が認められた。

山内(深尾)規重 (やまうち(ふかお)のりしげ 1682〜1721)

 深尾家の分家である東家の出身で、父は家老山内重直。 「山内」の称号を許可された。 5代藩主豊房(とよふさ)(1672〜1706)から近習家老に抜擢されて、豊房の行った藩政改革を支えた。
 6代藩主豊隆(とよたか)(1673〜1720)の代では、宝永4(1707)年の大地震被害の復興策をめぐる意見の対立や、地震の影響で幕府から参勤交代を免除されながら、母親の看病目的で江戸へ強行しようとした豊隆を諫止したことから、豊隆と対立し、宝永7年に罷免。 一度は許されたものの、正徳元(1711)年に深尾・孕石(はらみいし)両家の婚姻を豊隆が気に入らず、連座という形で土佐国香美郡山北村(現香南市)に幽閉された。
 豊隆の死後豊常(1711〜25)が七代藩主となると、規重は名誉を回復されて藩主補佐役となった。のちに規重の子市正が豊常の跡を継いで8代藩主豊敷(とよのぶ)となった。

森田久右衛門 (もりたきゅうえもん 1641〜1715)

 藩窯尾戸焼の初代焼物師。 2代藩主忠義は産業振興策の一環として藩窯創設を図り、承応2(1653)年、大坂から陶工久野正伯(くのしょうはく)を招いて、城北尾戸の地に窯を築かせた。 久右衛門は、山崎平内(へいない)とともに正伯の弟子となり、やがて3人扶持をもって藩に召し抱えられた。 延宝6(1678)年には4代藩主豊昌によって江戸へ呼び寄せられ、大老酒井忠利を始め幕府要人や茶人の前で作陶の披露を行った。 彼の日記「森田久右衛門日記」には、轆轤(ろくろ)を自在に操って客の好みに即座に応じる様子が活写されている。 またこの日記の前半部分、出府の途上で立ち寄った各地の窯に関する見聞は、江戸前期窯業の貴重な記録として名高い。

広瀬実常 (ひろせさねつね 1640〜1715)

 北条流の軍学者。 貞享3(1686)年、山内家が初めて召し抱えた軍学者宍戸勘左衛門(北条氏長の高弟福島伝兵衛国隆の門人)が病死、新たに北条家に推薦を求めて召し抱えたのが実常である。
 実常の父実義は加藤清正に仕えていたが、加藤家の断絶後、浪人となり江戸に出ていた。 実常は福島国隆の高弟として松宮観山と並び称され、国隆亡き後は門人の指導にあたっていたが、元禄4(1691)年、50人扶持で土佐藩に召し抱えられた。 その後相次いで加増を受け、元禄15年には知行千石、中老職に昇った。 著書に「足軽百条図解」「国司郡司人数持大将可心得条々」などがある。 広瀬家は以後代々江戸で軍学を学び、7代伝太夫実美(さねきよ)に至り、明治維新を迎えている。

谷丹四郎垣守 (たにたんしろうかきもり 1698〜1752)

 谷垣守(通称丹四郎)は、土佐南学派の祖である谷秦山の長子として、元禄11(1698)年に城下北部の秦泉寺村に生まれ、儒学や国学など幅広く学問を修めた。
 父秦山は、6代藩主豊隆襲封の時におきた政変に連座して、山田村(現土佐山田町)へ蟄居の処分を受けた。 しかしその後も死ぬまで門人や自分の子息たちに教授を続けた。
 父が逝去して7年後の享保9(1724)年、垣守は他国遊学が認められ、玉木葦斎や賀茂真淵など、全国の第一線で活躍する学者に師事し、国学と神道を中心に学問を続けた。
 その結果、後の垣守の学問は、儒学を機軸とした父の学風に加え、国学を追求して新しい境地が加わり、この学風が実子真潮に受け継がれた。

川谷薊山 (かわたにけいざん 1706〜69)

 18世紀に活躍した暦学者。 宝永3(1706)年、奉行方留書を勤める少禄の藩士の家に生まれ、藩儒谷垣守(たにかきもり)について天文暦学、神道、朱子学を学び、元文3(1738)年江戸に出て算学を究めた。
 帰藩後は留守居組の勤めをしながらも塾を開き多くの門人に算学や暦学を教え、自らも天体観測を続けた。 そんな中、薊山は宝暦13(1763)年に幕府天文方も予報しえなかった部分日蝕を推算した。 当時日蝕は凶兆としてとらえ朝廷内では祈祷なども行われていた。
 この予報は推算通りに的中し、その結果薊山の名は全国に知られることとなった。 当時の藩主豊敷(1712〜67)は翌年春に薊山を高知城三ノ丸に召し、対面して天文測器を見ながら予報の詳細を尋ね感賞したという。

■後期

宮地太仲 (みやじたいちゅう 1769〜1842)

 安芸郡田野の芝生まれ。 父の文仲を継いで医を志し、大坂にでて医学を岡慈庵に、経書を篠崎小竹(儒学者、漢詩人)に学び、帰国後は藩の診療を度々勤めて徒士格二人扶持を受ける。 また、天保11(1840)年には土佐における最初の木版農書である『農家須知』を出版しており、農学者としても知られる。
 太仲は医学・農学・漢学にとどまらず、書画・茶道・俳諧にも長じ、美濃派俳諧の重鎮でもあった。 俳諧同好会の双松庵を組織し、田野の福田寺に芭蕉の句碑を建てている。

黒田長元(山内豊幹) (くろだながもと) 1812〜1867)

 長元は元の名を山内豊幹といい、文化9(1812)年、10代藩主豊策(とよかず)の七男として土佐に生まれた。 文政11(1828)年12月、筑前秋月藩主九代黒田長韶(ながつぐ)の養嗣子となり、名を長元と改める。 天保元(1830)年5月には長韶の三女慶姫と結婚。 同年10月、長韶の隠居に伴い10代藩主に襲封、12月には従五位下甲斐守に叙任された。
 御座船を建造して参勤交代を陸路から海路へ変更、秋月藩の経済を支配していた本藩福岡藩の在郷町に対抗して小杉新町を建設するなど、三男長義に家督を譲るまでの30年間藩政をみた。 慶応3(1867)年10月20日死去。秋月の古心寺に夫人と共に同じ墓に葬られている。

山内候子 (やまうちときこ 1809〜1880)

 13代藩主豊X(とよてる)の夫人(結婚前は祝子)。 薩摩藩主島津斉興(なりおき)の娘で、島津斉彬(なりあきら)の妹にあたる。 天保2(1831)年に婚儀をあげ、一男一女をもうけたがともに夭折、嘉永元(1848)年に豊Xが死去すると、智鏡院後華常候と号し江戸築地屋敷に起居した。 豊X・豊惇(とよあつ)の2代にわたる藩主急死による御家断絶の危機を救ったのが、候子が作った薩摩藩主島津家との人脈であった。 賢明の聞こえ高く、文学に長けていたといわれている。
 文久2(1862)年の参勤交代制度の緩和により、翌3年に土佐へ下国して藩校教授館跡に作られた追手弘小路屋敷で暮らしたが、維新後に再び上京、年間2000石の扶持を受けて、箱崎邸内に設けられた中御殿にて暮らした。

■幕末維新期

諒鏡院 (りょうきょういん 1841〜1916)

 土佐12代藩主山内豊資(とよすけ)の娘。 名を悦姫といい、生後まもなく出羽秋田藩10代藩主佐竹義厚(よしひろ)の嗣子義睦(よしちか)と婚約し、安政4(1857)年4月義睦のもとへ輿入れしたが、結婚後数ヶ月で夫義睦が死去するという不幸に見舞われた。
 夫死後の諒鏡院は、佐竹家にとどまり、和歌を詠んだり書を嗜むなど様々な趣味に生きたと言われている。 また、その聡明さから実家の山内家でも頼りとされ、特に弟の豊範(とよのり)(最後の土佐藩主)死後の山内家では、若い当主豊景(とよかげ)の支えになったと言われている。

谷干城 (たにたてき 1837〜1911)

 幕末の尊王攘夷運動、戊辰戦争への従軍、西南戦争での活躍で有名な軍人政治家。 また土佐藩儒家としても鋭敏な感性の持ち主であった。
 明治3(1870)年2月、知事府は各局司に対して、朝廷関係および旧藩内の金穀などの出納関係帳簿などを除いて、公文書をすべて焼却・破棄するよう通達を出した。 この通達に触れた谷は、記録の選別・破棄は記録方役所の役目であるとし、土佐藩史編纂に必要な公文書が、無秩序に破棄されることに対して、憤慨を露わにしている(『山内資料館目録』解題・『豊範公紀』など参照)。

河田小龍 (かわだしょうりょう 1824〜1898)

 文政7(1824)年、高知城下浦戸町(現在は高知市)の船役人の家に生まれた。 狩野派と文人画を修め、人物画・山水画・記録画を硬軟自在に描き分ける画家として世に知られる。 その一方、学問や書にも親しみ、知識人としても有名。
 嘉永5(1852)年7月、小龍は、アメリカから帰国した中浜万次郎の取調べを担当した時の内容を『漂巽記略(ひょうそんきりゃく)』としてまとめ、15代藩主豊信(とよしげ)(容堂)に献上した。 小龍はこれを契機に対外情勢や洋学の知識を求める者たちとの交流をもつようになる。 西洋事情を坂本龍馬に伝えたのも彼といわれ、安政の地震後、龍馬が高知市築屋敷の仮宅に訪ねたエピソードなどを『藤陰略話(とういんりゃくわ)』と題した著書に残している。

佐々木高行 (ささきたかゆき 1830〜1910)

 天保元(1830)年10月12日生まれ、吾川郡瀬戸村(現高知市長浜)出身。父は100石を給される土佐藩士で、扈従組(こしょうぐみ)に属していた。
 幕末期、海防問題が浮上すると、早くから西洋兵制への転換を主張し、軍政改革に向けて尽力。 また早くから上士尊攘派として奔走している。 保守派の反対で何度も排斥されるが、時局が勤王に傾くに従って次第に藩政に参画し、大政奉還を藩論とすべく活動すると同時に、武力倒幕派との仲介役も務めた。 戊辰戦争が勃発すると、海援隊を指揮して長崎奉行を接収する等、軍功もあげている。
 維新後は明治政府に出仕し、諸役を歴任。 岩倉遣欧使節団に随行し、外遊して得た知識を活かして特に司法の分野で活躍した。

細川潤次郎 (ほそかわじゅんじろう 1834〜1923)

 天保5(1834)年、土佐藩の儒学者細川清斉の次男として高知城下に生まれる。
 儒学を修めた後、長崎・江戸に渡り、兵学・砲術・航海術・英語をそれぞれ学び、帰国後は藩校文武館の蕃書(ばんしょ)教授を務める他、藩政改革にも参画し、海軍の充実に努めた。
 維新後は新政府の官僚として刑法草案・会社条例編纂などの法整備や、皇太子の教育補導、女子高等師範学校の校長など教育にも尽力。 その功により明治33(1900)年に男爵を、同42(1909)年には文学博士を授けられている。
 15代藩主山内豊信(容堂)の侍読を務めるなど山内家との関係も深い。 古美術品保護を目的の一つとしていた観古美術会に「古今和歌集高野切本」を出品した際の関係文書には潤次郎の名が見え、廃藩置県後も山内家との関係が続いていたことを窺わせる。

中浜万次郎 (なかはままんじろう 1827〜1898)

 幡多郡中ノ浜(現土佐清水市)で漁師の子として生まれる。 15歳の時に漁に出て時化に遭い漂流。 米国捕鯨船に助けられ、10年間におよぶ米国滞在中に英語や遠洋航海術・捕鯨術等を習得した。 帰国後、城下へ招かれて藩士に取り立てられ、藩校で語学・航海術などの指導にあたる。
 ペリー来航後は直ちに幕府から江戸へ呼び寄せられ、老中首座阿部正弘ら幕閣や通詞・洋学者達の情報源となるほか、咸臨丸(かんりんまる)の造船や航海術指導にもあたった。
 嘉永7(1854)年の日米和親条約調印にあたっては、外交文書の翻訳を行い、交渉の席を陰で支える。 さらに安政7(1860)年、条約批准のため渡米する使節団に随行して咸臨丸の操船補助や通訳、現地案内人をつとめた。

山内豊積 (やまうちとよつみ 1834〜1894)

 豊積は天保5(1834)年11月9日、分家南御屋敷初代豊著(とよあきら)の三男として高知城下に生まれた。 異母兄豊信(容堂)が15代藩主になると、その跡を継ぎ南御屋敷嫡子となった。 文久3(1863)年以降は、度々上京しては、守護兵御用・清和門警衛・禁門守護等を勤め、容堂や豊範の名代として活躍した。
 維新後は、山内家が設置した海南学校の惣宰を勤め、明治19(1886)年、最後の藩主豊範の死去に際しては、家政監督として山内家経済の引き締めにあたった。 同22年、男爵を授けられる。 同27年12月4日、高知において死去。 享年61歳。

後藤象二郎 (ごとうしょうじろう 1838〜1897)

 吉田東洋の義理の甥。高知城下片町(現与力町)の馬廻の家に生まれる。
 嘉永2(1849)年跡目を相続、東洋の抜擢により安政6(1859)年幡多郡奉行となったのを出発点に、海防・軍事関係の要職を歴任。 文久3(1863)年江戸開成館で航海学・洋学を学び帰国すると、さらに重職を任されるようになる。
 慶応2(1866)年、土佐藩で開成館が設立されるとその責任者に就任、軍隊の洋式化や専売制による国力充実につとめた。 その後、後藤は蒸気船購入のため赴いた長崎で坂本龍馬から「船中八策」を授かりその策を容堂へ進言、大政奉還建白へとつなげ、その後も倒幕派と対抗する容堂の右腕として大いに働いた。 維新後は明治新政府に徴せられ、容堂の元を離れて政治家として活躍したが、藩政期のことは多くを語らなかったという。

参考:土佐山内家宝物資料館広報誌「海南千里」
| top |
公益財団法人 土佐山内記念財団 〒780-0862 高知県高知市鷹匠町2-4-26 TEL/FAX 088-873-0406
Copyright(c)Tosa Yamauchi Family Treasury and Archives All Rights Reserved.