山内一豊の生涯
1.一豊の誕生と秀吉への士官
 天文14(1545)年、一豊は山内盛豊の三男として尾張国に生まれました。
 戦国乱世の真っ只中、兄と父を相次いで失い、永禄2(1559)年の春には、主君織田伊勢守家が織田信長の攻撃を受け滅亡、15歳の一豊は、浪々の旅に出ます。美濃・尾張・近江を転々としたのち、信長の家臣としてあった木下藤吉郎に仕え、天正元年(1573)年に近江唐国で400石を拝領しました。
 以後一豊は、長篠の戦い、中国の毛利攻めに従軍し、漸次加増を重ねていきました。本能寺の変で織田信長が没した後は、天下人秀吉古参の家臣として、その期待に応えていきます。

初代藩主山内一豊肖像画
2.城主への出世と秀次宿老就任
 天正13(1585)年閏8月、近江長浜2万石を拝領して、晴れて城主となった一豊は、同時に秀吉の甥、羽柴秀次の宿老となりました。
 天正18(1590)年、小田原の北条氏が滅亡、家康が関東に移され、秀次が尾張清州城主になると、秀次の宿老たちも一斉に東海地方に転封となり、一豊も遠江掛川に5万石で入部します。
 秀吉のすすめた朝鮮出兵に際しては、秀次や他の宿老たちとともに京都の留守居に留まり、伏見城の築城にあたりました。
 しかし秀頼の誕生を機に、秀吉と秀次の関係は急速に悪化し、文禄4(1595)年に秀次は切腹に追い込まれます。
 しかしこの時、一豊は秀次の宿老でありながら連座を免れ、以後も掛川城主としてありつづけました。
3.秀吉の死と関ヶ原
 慶長3(1598)年の秀吉の死後、対立を深める徳川家康と石田三成との間で、一豊は家康方につきます。
 そして慶長5(1600)年7月、一豊は「小山の評定」で功名をあげました。評定の場で、掛川城の明け渡しと人質の差し出しを上申、この功績によって、関ヶ原戦後の論功行賞で土佐一国を拝領、ついに国持大名となりました。

古写真 幟旗「無」
4.土佐入国と土佐藩の確立
 慶長6(1601)年正月8日、浦戸城に入場した一豊は、以後4年9ヶ月にわたり土佐藩政をみます。
 家臣団の増強、高知城の築城、地方組織の編成、宗教秩序の改変等々、後の土佐藩政を大きく規定する制作を次々と実行に移し、慶長10(1605)年9月20日、61歳で土佐に没し、真如山に葬られました。
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一豊の妻 見性院
1.見性院の誕生
 見性院が生まれたのは、一豊出生から12年後の弘治3(1557)年です。見性院という呼称は出家後につけられた院号ですが、生前の呼び名は「千代」とも「まつ」ともいわれています。しかし、正確にはわかりません。
 見性院の出自にも多くの説があり、現在も確定されていません。近江国坂田郡飯村(滋賀県米原市)に住んだ若宮喜助友興の娘とする説や、美濃国群上(岐阜県郡上市)の城主遠藤盛数の娘とする説、一豊姉である通の夫安東郷氏の兄守就の娘とする説をはじめ、斉藤氏説、不破氏説などがあります。

見性院肖像画
2.見性院の枡
 鏡とともにご神体として藤並神社に納められた枡は、近江長浜時代に見性院が使用したと伝わるもので、その底には無数の疵がありました。これは枡をまな板代わりに使っていたためについたとされています。残念なことに、この枡は昭和20年の高知空襲で消失しましたが、幸いにも藤並神社へ奉納するにあたって作製された複製が現存しており、それによってご神体の様子を知ることができます。
 見性院の枡は、城下のお米蔵に納められ、毎年正月16日の大黒祭りの際に披露されたといわれています

見性院枡写
3.名馬購入の逸話
 見性院の逸話としてよく知られているものの一つに、名馬購入の逸話があります。見性院が名馬を買うために持参金の黄金を鏡箱から出し、一豊に渡したという話ですが、この名馬購入が一豊出世の糸口とされ、見性院の「内助の功」を象徴的に伝える逸話として広く知られています。
4.長浜地震と養子拾
 一豊と見性院の間には一人娘がおり、名を与祢姫といいました。しかし、長浜城主時代の天正13(1585)年11月29日、領内で大地震が起きます。城下はもちろん長浜城も被害を受け、与祢姫も幼い命を落としました。
 一人娘を失った夫妻は、その後男子の捨て子を拾い、名を「拾(ひろい)」と名付けて養育します。拾は見性院の帰依する京都妙心寺の南化元興の弟子となり、慶長5(1600)年14歳の時に剃髪、のちに湘南と号します。そして、一豊とともに土佐へ入国した後、当時荒廃していた五台山吸江庵を再興、土佐藩の保護を受けました。

湘南宛見性院書状
5.忠義・阿姫の縁組と一豊夫妻
 一人娘の与祢姫を失った後、子供に恵まれなかった一豊夫妻は、一豊の弟康豊の長子国松を跡継ぎとします。この国松がのちの2代藩主忠義です。
 土佐入国後の慶長10(1605)年、京都において養子忠義の婚礼が執り行われます。縁組の相手は家康の養女阿姫(くまひめ)でした。
 この婚礼に際し、一豊が忠義を後継者として家康・秀忠に御目見得させ、見性院は婚礼後阿姫に付き添って土佐へ帰国しており、一豊・見性院夫妻がそろって細心の心配りをしている様子がうかがえます。
6.晩年の見性院
 一豊の没後、見性院は直ちに出家し、翌年には京都伏見へ移ります。その後は京都桑原町の屋敷を購入し、余生を過ごしますが、国許の忠義との間では折にふれ手紙などのやりとりがありました。
 京都にあって仏道と旧知の者との交流に余生をおくった見性院ですが、元和3(1617)年12月4日、一豊と同じ61歳でその生涯を閉じます。見性院のなきがらは、土佐へ帰ることなく、生前より帰依していた京都妙心寺大通院に葬られました。
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