■初期の土佐藩

関ヶ原合戦の功で土佐一国を拝領した山内一豊の入国により始まった土佐藩は、軍役への対応や婚姻関係によって江戸幕府体制の中での安定した地位を模索します。同時に領内への施策もすすめ、野中兼山の改革などによって藩政の基礎を確立しました。

主な事件

・一豊の入国と施策

一豊の治世は4年9ヶ月という短い期間ではありましたが、大高坂山に高知城を築いて城下町の整備を進め、領内要地に重臣を配置するなど藩政の礎を築いています。また長宗我部時代の旧政を引き継ぐことを表明し、民心の安定を図りました。
その一方で幕府との関係においては、養子に迎えた甥の忠義(のちの2代藩主)を家康の養女と縁組し、徳川家との絆を深めました。

・大坂の陣と軍役負担

徳川家が将軍となり幕府を開いたとはいえ豊臣家の影響力は大きく、初期の政情はいまだ不安定な状況でした。こうした情勢に決着を付けたのが、大坂の陣です。
かつては豊臣恩顧の大名であった山内家ですが、幕府からの命を受けて大坂城攻略に加わりました。ここでの働きは冬の陣・夏の陣ともに国許からの出兵が遅れて不首尾に終わりますが、その後も土佐藩には江戸城・大坂城などの城普請を始めとする重い役負担が次々と課せられていきました。

・初期の藩政改革

幕府から課される役負担に対応するため、2代藩主忠義は早くも窮迫した財政を立て直す必要に迫られます。そこでまず行われたのが「元和改革」でした。白髪山(しらがやま)の材木を上方へ移出し財源とする政策や、領内の検地を進めて経済的な基盤の確立を目指しました。
これをふまえ忠義の信任を受けた野中兼山がさらに新田開発や諸産業の導入を進め、多くの成果を上げていきます。しかし兼山の改革は一方で急進的な政策が民衆の生活を圧迫し、不満の声があがるようになります。この声を背景に家老達が弾劾状を3代藩主忠豊に提出、寛文3年(1663)に兼山は失脚に追い込まれました。


山内一豊印判状(慶長6年久万村庄屋・百姓中宛)
百姓たちに年貢の末進を禁じたもの。
■中期の土佐藩

安定期に入った土佐藩は、法の整備を進めるとともに産業の育成にもつとめます。しかし大地震や数度にわたる火災・飢饉などの災害が相次ぎ、藩は財政難に陥ります。そこで倹約令等により打開策を模索しますが、中期の華美な風潮もあり状況の好転には至りませんでした。

主な事件

・中村支藩の成立と改易

幡多郡の中心地である中村は入国時から重視され、一豊の実弟康豊が2万石の領地を任されていました。康豊の子である忠義が2代藩主となったため一度途絶えますが、忠義の隠居を機に二男忠直へ3万石の領地を与え、中村支藩として分家・独立しました。
しかし元禄2年(1689)、3代豊明が将軍綱吉の怒りを買い改易処分となります。中村は
一時幕府の預地となりましたが、最終的には土佐藩の直轄領に戻され、以後中村には幡多郡奉行が置かれました。

・「元禄大定目」の制定

体制の安定と共に、藩法の整備も進められます。元禄3年(1690)3月、4代藩主豊昌の時に制定された「元禄大定目」は、徳川幕府の法令を元に、これまで藩が発布した法令を再編して3巻570条余りにまとめたものでした。以後幕末まで、この定目に追加する形で運用されました。

・御蔵紙・平紙の制

慢性的に続く藩の財政難への対策として、正徳4年(1714)土佐の特産品である紙の専売制を導入します。初め一定量の楮を生産地から買い上げる御蔵紙制が採用され、やがて一般に流通する平紙にも規制を加えるようになりました。しかしこれには農民の反発も強く、宝暦・天明期には専売制に反対する百姓一揆が起きました。

・相次ぐ災害―宝永地震と高知城焼失・再建

享保の大火で高知城は追手門など一部を残して全焼、再建には24年の歳月を要しました。また宝永4年(1707)に起きた宝永地震では、土佐は津波により甚大な被害を受けました。


徳川家綱領知判物
中村3万石を山内修理大夫忠直へ分け与える旨の記載がある。
■後期の土佐藩

中期で試みた諸政策も財政難を好転させることはできず、その後も相次ぐ災害や幕府から課された普請役などが藩財政への大きな負担となります。その中で領民の強訴や逃散へ対応しながら藩政改革に取り組み、綱紀粛正につとめ、藩士の教育にも力を入れました。

主な事件

・繰り返される藩政改革

困窮した藩財政を立て直すため、9代藩主豊雍は一時的に土佐藩の格式を本来の20万石から10万石の格式に下げることを願い出ます。これにより石高に応じて定められる幕府からの負担を軽減させ、内向きには家臣知行を借り上げる政策も行い、財政の建て直しを図りました。
その後の藩主も倹約と砂糖・樟脳(しょうのう)など産業の育成を進めますが、若くして没する藩主も多く、改革の成果は思うようにはあがりませんでした。

・学問・文化の成熟

藩士の教育を目的として宝暦10年(1760)に藩校「教授館」が設立されて以来、儒学を中心とする学問が奨励されました。教授館の総裁に就任した山内家分家・東邸の当主豊栄(とよよし)は、自宅で定期的に読書会を始めとする様々な催しを開き、藩校の教授達も漢詩会などを行って文化的な交流が盛んに行われました。
こうした文化活動は武士に限らず、僧侶や有力商人、庄屋など幅広い層が加わり、土佐の文化に幅と厚みを持たせました。


雅俗太平楽
江戸後期に土佐で活躍した文化人たちが描かれる。
■幕末維新期の土佐藩

黒船来航ののち開国・攘夷をめぐる混乱の時代に入ると、土佐藩では藩主豊信が幕府の中枢に迎えられ、公武合体論を推し進めて大政奉還などの局面で重要な働きをします。その一方で土佐出身者からは、藩の枠組みをこえて活躍する多くの志士を輩出しました。

主な事件

・黒船来航と15代豊信(容堂)の政治

前藩主の急逝により中継ぎの藩主となった豊信(容堂)でしたが、黒船来航により時勢への対応が急務となると、吉田東洋を仕置役(参政)に起用し、改革の手腕を振るいました。しかし将軍継嗣問題で一橋派が敗れると豊信も隠居・謹慎処分を受け、改革を引き継いだ東洋も尊王攘夷の気運の高まりの中で暗殺され、改革は道半ばで中断されました。

・公武合体の周旋と国力増強

東洋暗殺後の土佐藩は、土佐勤王党の盟主武市半平太(瑞山)を中心に、尊王攘夷の動きを強めます。そうした中豊信の謹慎が解け前藩主・容堂として政界に復帰、将軍家茂の上洛による公武合体実現に尽力します。
しかし、容堂と勤王党の思いは一致せず、中央政治の情勢が変わり、朝廷から尊王攘夷派が一掃されると武市半平太以下の勤王党員は捕らえられ、長州戦争の開戦をみて切腹などの処分が下されました。
土佐へ帰国後の容堂は吉田東洋の甥である後藤象二郎に改革を任せ、開成館の設立や蒸気船・武器の購入などにあたらせて国力の増強につとめました。

・大政奉還の建白と倒幕

坂本龍馬が薩長同盟を成立させ倒幕の動きが強まる中、龍馬や後藤は大政奉還の動きを進め、容堂を動かしてついにそれを実現させます。
一時は内戦を回避したかに見えましたが、西郷隆盛や岩倉具視を中心に計画されたクーデターにより情勢は一変、戊辰戦争へなだれ込みます。
容堂は最後まで徳川家擁護のために尽力しますが、戦火があがると官軍に加わり、板垣退助率いる土佐藩兵が東進して会津若松城攻略にあたりました。
明治4年、廃藩置県により藩が消滅すると、山内家は16代続いてきた藩主の地位を降ります。上京した最後の藩主豊範(とよのり)は、近代華族制度の中で侯爵に位置づけられました。


坂本龍馬書状 乙女宛
時勢を見極めることの重要性を説いた、意味深な記述の手紙。
■年表
1600 慶長 五 一豊土佐一国を拝領
1601    六 一豊浦戸城入城、領内巡視
1603    八 一豊大高坂城へ入城、河中山城と改称(のち高知(智)山城)
1617 元和 三 二代将軍秀忠より土佐一国(二十万二千六百石)の領知判物を下付
1631 寛永 八 野中兼山奉行職就任
1656 明暦 二 忠義次子忠直中村支藩三万石を領する
1663 寛文 三 野中兼山奉行職辞任(寛文改替)
1671   一一 幕府預人伊達兵部高知到着
1689 元禄 二 中村三万石収公(元禄九年還付)
1690    三 元禄大定目制定
1698   一一 高知城下大火
1707 宝永 四 宝永地震
1727 享保一二 高知城火災、天守以下焼失
1732   一七 享保飢饉
1753 宝暦 三 高知城再建落成
1759    九 藩校教授館設立
1784 天明 四 天明飢饉
1806 文化 三 藤並神社落成(祭神一豊・見性院・忠義)
1852 嘉永 五 漂流者中浜万次郎アメリカより帰国
1853    六 吉田東洋を参政に起用
1861 文久 一 武市瑞山土佐勤王党結成
1862    二 吉田東洋暗殺
1866 慶応 二 開成館を設立開業
1867    三 豊信(容堂)大政奉還建白、王政復古発令
1869 明治 二 豊範版籍奉還建白、高知藩と改称
1870    三 知事府を藩庁に改称
1871    四 廃藩置県、高知県と改称 高知山城廃止
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